言語が変われば歌い方にも変化

音楽は心の底から真の愛情をささげ、この上ない情熱をもって追うものだと思います。その情熱を自分だけで大事にするのではなく、他の同じ情熱を持った音楽家とシェアできることほど幸せなことはありません。

 リハーサル中、それぞれのアプローチが違っても、意見を交換しながら少しずつお互いの音楽を近づけていきます。音楽は言葉のようで、話す言葉の違う人間が集まると、音の歌い方も変わったりします。

 たとえばフランスの印象派の曲を今月2つ弾きますが、フランス語がかった、まとまったフレージングと繊細なニュアンスは、私が普段使うはっきりとしたドイツ語のアプローチとまったく違う魅力があり、今月中旬にリヨン管弦楽団と弾くラヴェルの協奏曲はどんな刺激が待ち受けているのか楽しみでなりません。

 6月、サン=サーンスの「動物の謝肉祭」を弾きました。米ワシントンでの室内楽プロジェクトで、世界中から演奏家が集まります。動物に対する想像は皆共通したところがあり、ユーモアたっぷりに表現するのは楽しいひとときでした。ドイツ語や英語では楽器を「弾く」ことを「play(遊ぶ)」と言いますが、このような曲を弾くと「遊ぶ」という言葉はふさわしいと思いました。

 遊ぶことは大事でも、コンサートそのものは真剣です。演奏者それぞれが自分自身だけの「言葉」で語り、キャッチボールをする瞬間は、自分に正直であり、相手に正直であることが欠かせないのです。奏で方によって嘘はばれてしまい、その嘘によって作曲者のメッセージも率直に聴衆に伝わらなくなってしまいます。それぞれの言葉は違っても、音楽への信念が一緒になるとき、本物が生まれるのだと思います。