ベートーヴェン・ソナタ全曲演奏シリーズ

 今回の企画は私の個人的な目標を達成するだけではなく、ベートーヴェンと親しめなかった人たち、またベートーヴェンの名曲しか知らなかった人たちにもっと彼の音楽をわかっていただきたいという目的があります。特に若い人たちを対象にしたプロジェクトにしたいと思っています。渋いと思われてしまうベートーヴェンの曲を、まだ20代の私がどれだけ彼の音楽に惚れこみ、どんな魅力にあふれているかを8公演にわたって伝えたいと思うのです。

 ベートーヴェンの32のソナタはほぼ彼の生涯(24歳で書いたop.2から52歳で書いたop.111まで)にわたっています。私は絵画が好きですが、昔ピカソの一つの絵を見てもよく理解できず何がいいたいのかなと頭が?マークでいっぱいになったことをよく覚えています。しかしパリのピカソ美術館に行って彼の初期の作品から晩年までを辿っていくと、こういう成長と人生経験を通して、たとえばキュービックな絵になってきたんだなとやっと納得することができました。カンディンスキーにも同じことが言えます。

ベートーヴェンにも成長と変化の過程があるからこそ面白いのです。彼は他の作曲家と比べても人間味の強い作曲家だと思います。彼の楽譜は思いつきのようにきれいに書かれたモーツァルトの楽譜と違って線やメモなどでぐちゃぐちゃです。

 初期のハイドンのために書かれた3つのソナタop.2は若い人にぴったりな純粋さ、単純さとユーモア に溢れていて、私の特に好きな3曲です。しかしそれ以降も幻想曲風ソナタで語られる身分の差のため実らなかった恋、 耳がすこしづつ聴こえなくなり苦悩の毎日のはて、ハイリゲンシュタットで自殺を決意し、そして立ち直った後のop.31のソナタ、文学に詳しかった彼の『テンペスト』におけるシェイクスピアの哲学的解釈、ロマン派への変わり目を感じさせる『熱情ソナタ』、ピアノという楽器の限界まで達する『ハンマークラアヴィア』のオーケストラのような構成と響き、最後のソナタの天国へ舞っているような神秘と熟練まで、ひとつひとつに多彩なストーリーが待ち受けています。ですからこの中からどれかを選曲することは難しいです。たとえば小説の分野でも『青春の門』の堕落篇だけ読んで筑豊篇と自立篇を読まないでいられるでしょうか。

 戦乱のウィーンを体験した彼は、ピアノ・コンチェルト『皇帝』の中で、戦後新しい世の中への希望を訴えています。『苦悩を突き抜け、歓喜に至れ』と言っていた彼の、常に絶望を経験していたにも関わらず、肯定的で勇敢な姿勢に私は尊敬の意を感じます。私の世代は皆戦争を経験しておらず当時に比べて幸せな社会で暮らしているかもしれません。しかし、却ってコンピュータなどに支配されている今の世界は表面的になりつつあります。見えるもののみに興味が向いてきているこの世界、音楽のような見えないものを感じることこそ大切だと、私は思います。

 最近音楽を含める文化に対して世の中の理解が減っている中、ラジオやテレビでもクラシックをポピュラーにしようと名曲ソナタの有名な楽章しか放送しなくなってきていますが、ベートーヴェンの本来の作品全体に触れないことはとても残念なことだと思います。それはベートーヴェンが意図したことではありませんし、ひとつひとつの曲は全楽章、又は全曲集を聴くことによって、人間の心のより深いところを理解することができるのではないでしょうか。

 最近このようなことを私はよく考え、今すぐ人々に訴えないと、と思うのです。ベートーヴェンは、『音楽はあらゆる知恵や哲学よりも高度な啓示である』と言っていますが、私はベートーヴェンの音楽の伝達者として、この世代の一人の音楽家として、彼の哲学的な疑問をお客様と一緒に考え、彼の『ピアノ・ソナタ』という生涯に渡って書き続けた傑作を心から楽しみたいと思っております。

 (小菅 優)

【プログラム】
 第1回 第1番/第2番/第3番 
   2010.10.21. いずみホール 10.27.紀尾井ホール 《公演終了》
 第2回 第16番/第17番「テンペスト」/第18番/第28番
   2011. 6.28. いずみホール  6.30.紀尾井ホール 《公演終了》 
 第3回 第9番/第10番/第27番/第13番/第14番「月光」《次回》
 第4回 第24番「テレーゼ」/第25番/第15番「田園」/第6番/
 第21番「ワルトシュタイン」
 第5回 第19番/第20番/第7番/第12番/第26番「告別」
 第6回 第8番「悲愴」/第4番/第22番/第23番「熱情」
 第7回 第5番/第11番/第29番「ハンマークラヴィーア」
 第8回 第30番/第31番/第32番